箱に残った希望

「ついにパンドラの箱を開けてしまったね。」私に隠し事がバレたときにそう言った。


意味はあっているが、そんな神話から引用するほど大層なことではない。

単に無駄遣いの履歴が明らかになっただけだ。そのように隠してもすぐばれる程度のことに遣うとは。

 

ちょっと響きのいい言葉をひけらかして、悦にいっている。注意をしても、こりていないようにツーンとしているので、別の側面から当たってみることにした。「で、あらゆる災厄のあと、最後に残ったという希望は何かね?」と聞いてみた。「え?なに?」

 

よくわからずに慣れない言葉を遣っているのが、すぐ露呈した。元の神話など知らず、答えを用意していなかったため、ちょっと恥ずかしくなったのか、先ほどまでまるで耳に届いていなかったお小言は急速で耳に届いたようだ。

残念だ。ここで少し気のきいた返しができたなら、水に流してやらなくもないのだが、残念だ。

 

日頃間違ったことわざや四字熟語を遣っては、正されている、その不屈の精神だけは認めよう。

 

 

「なーぜなーぜ」という言葉が流行っている。知ってる?と聴いてきたので、ああ、毎日繰り返しYouTubeで背中越しに聞かされている。と思ったので「知ってるよ。」と答えた。「もとの出所知ってるから、やなんだよねぇ」と言ってきたので、何回も聴いてるうちに、なんとも思わなくなるよ。と言ったら、「いーや認めないね」

いいも悪いも、相手が振ってきた話題でけんかをかって出るつもりもさらさらないので、「そうなんだ」と流しておいた。


ところが次の日「なーぜなーぜ」がだんだん使いやすいことに気づいてしまったと言い、あろうことか、もとの言葉をつかいにくいと言い出したので、さすがに昨日の今日で自分の矛盾点に気づき、「あ~ついに批判までしてしまう始末!」とその自分の思考回路に頭を抱えてうなり出した。

興味深い。刷り込みの瞬間を目の当たりにした。こうやって言葉は、はやりすたれていくのだ。

 

人の意見は決して認めずにいた自分こそが過去の自分を否定してかえりみるということ、そこに私は希望を見いだした。

この事例を記すことで、いつか使おうとひそかに心にしまっておくことにした。